Chill Out 上越線の父
上越線は群馬県の高崎駅から新潟県長岡市の宮内駅までを結ぶ鉄道路線。川端康成が「国境の長いトンネルを越えると、そこは雪国だった…」と小説「雪国」の冒頭にも描いた清水トンネルがあることでも有名だ。みなかみ町、湯沢町、南魚沼市、魚沼市と雪国観光圏の各市町村を結んでいる。その上越線石打駅前にある銅像のことをご存じだろうか?「上越線の父」と呼ばれた岡村 貢(みつぎ)である。
岡村 貢は1836年越後国魚沼郡塩沢組(現在の南魚沼市)の大庄屋の長男として生まれた。背は高く、勉強・武術もできたという。全盛期にはその所有地は二百数十町歩を数え、三国峠は自分の敷地をだけで超えられたほど。年貢米は三千俵くらい入ったという。しかし貢は自分の祖父や父がしたように、困っている人がいれば地域の内外を問わず救済の手を差し伸べた。また私財を投じて学校、病院、銀行の建設なども行った。
時は文明開化、東京で初めて蒸気機関車を見た貢は「これだ」と思ったに違いない。というのは南魚沼から群馬に抜ける三国街道は冬期には凍死者や雪崩による遭難が絶えなかったからだ。これで人々を救え、経済を発展させられると思ったのだろう。
以来、鉄道敷設を何度も政府に働きかけるがらちが明かず、それなら民間でということで南雲喜之七など仲間をつどい上越鉄道会社を設立し、鉄道敷設に人生と私財を投じてまい進する。その頃貢が作った測量図がみなかみ町の「法師温泉 長寿館」に今も残されている。貢の玄孫にあたる常務の岡村国男さんにお話を聞いた。「この法師温泉も貢が開発したんです。賢母であった貢の母コンが、薬湯であるが開発されていないこの温泉を惜しみ、貢と相談し、温泉宿を作ったのです」
不幸にも折からの不況が襲い、もう少しのところで計画はとん挫し、上越鉄道会社は解散してしまう。しかし、国防の観点から政府も上越線の重要さに気づき、計画は国策として進む。ようやく1920年宮内・東小千谷間が開通したその2年後、貢は87年の生涯を閉じた。葬儀には町中の人が参列したという。そして当時東洋一と呼ばれた清水トンネルが1929年貫通し、上越線全線が開通したのは1931年9月1日のことである。
今年上越線が全線開通して90周年を迎える。貢は今も石打駅の前に立ち、上越線を見守っている。
法師温泉 長寿館 岡村 国男さん
聞き手 滝沢 重雄(雪国観光圏ブランドワーキンググループ)
参考文献「上越線敷設に賭けた岡村 貢の生涯」細矢菊治著